「母ちゃんが死んだぞ!!」犠牲になった❝名将❞
11月5日、四日市公害と環境未来館(三重県四日市市)で、愛知県立大学の学生を前に講師を務めたのは、湯浅和也さん(66)。
川北館長から「海星高校の湯浅さんといったら知らない人はいなかった」と紹介された湯浅さんは、海星高校野球部の元・監督。チームを春夏あわせて8回、甲子園に導きました。

その湯浅さんは、四日市公害を体験していて、小学校時代をこう振り返りました。
「正しいうがいの仕方を学びました。小学校に入ってから、ずっと(校内で)うがいをしていました。先生が常に『うがいをしなさい』と言っていたことを、今でも覚えています」
母親は、四日市公害の認定患者でした。
「笑顔が全くなかったです。常に苦しそう、悲しそうな顔をしていました。母のその時の気持ちはわかりませんが、溺れたような感じで息ができない…そんな苦しい姿しか記憶にありません」
母親は四日市市内の病院に入院しました。母親の愛情を感じたことはなかったと話す湯浅さんですが、忘れられないことがあります。
「小学3年生の時、雨の中、母ちゃんに会いたいと一人でバスに乗って、病院に見舞いに行きました。私は無口でしたが、母がにっこり笑って、タオルで私の顔を拭いてくれました。その時のあったかい手は今でも覚えています。母の友人が来て『よく来たね』と言ってくれたことも焼きついています」

家族の健康を気遣った父親は、鈴鹿市に引っ越す決断をしますが…。
「私が小学6年になった昭和46年12月、夜中に父親が『母ちゃんが死んだぞ!』と泣き叫びました。何時間も泣いていた父親の慟哭(どうこく)は一生忘れません。きょうだい全員で泣いて泣いて泣いて、深い悲しみの中で生活していました」
それから53年間、湯浅さんは、この体験を誰にも話しませんでした。
「自分が愛情に飢えていたのかなと思っていたので、母が認定患者だったことは一切封印してきました。思い出さないように思い出さないようにしてきたんです。しかし、三重テレビとの出会いの中で、取材にも来てもらい、母の物語を紡ぐことができました。こうして母のことを話すということは自分の気持ちを解放することにつながり、気持ちが楽になりました」

湯浅さんは、講義を聞いた大学生に、こんな言葉を贈りました。
「四日市の空も海もきれいですが、こういった(公害の)過去があったんだとつなげていくのは私の使命だと思い、こういう機会に皆さんに話をしています」
自らの体験から出た言葉でしめくくりました。
「犠牲はどの時代にもあります。今もいろいろな犠牲が出ていますが、それが少しでも少なくなるように、いい社会になるように願っています」

